原子力大国フランスの状況とその反原発運動
日本の使用済み核燃料の再処理にも関わるフランスは、ド・ゴール以来営々と核兵器開発を継続することで覇権を維持する核大国である。フランスの核と原発開発の歴史、反原発運動の状況など、在仏のコリン・コバヤシ氏に寄稿していただいた。

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原子力大国フランスの状況とその反原発運動

コリン・コバヤシ

フランスを想像する時、日本の多くの人が古い歴史を持った古城や、穏やかな田園風景や幅広い芸術、文化の奥行きの深さに魅了される。果ては美味しいワインやチーズ、数々の料理からシャンソン、ファッションに至るまでを夢見て、甘い気分に浸るのであるが、実は、そういうフランスの表層の裏には恐ろしい核開発の歴史が横たわっている。実際、全国に20箇所以上の核兵器関連施設があり、また58基の原発によって、ほとんど80%に達する電力生産量を誇ると同時に、数多くの研究施設やウラン鉱山(現在ではすべて閉山)が全国に点在しているのである。南仏プロヴァンス地方の美しさにうつつを抜かしているのは、まさに知らぬが仏なのである。しかし、フランスという国は、なぜ、これほどまでに原子力ずくめになってしまったのか、その疑問に答えるには、歴史を辿り直しつつ、フランスの地勢的、政治的、地政学的背景を考慮すべきであるし、また植民地主義を盛んに行って来た旧宗主国としての、ヨーロッパ中心主義的な覇権国家としての側面も念頭においておかねばならない。

1.原子力大国の歴史的経緯

フランスの科学史を考える意味でも、19世紀末から20世紀初頭にかけて、放射能の発見、人工放射線の発見など、輝かしい展開があった。これらの動きの中から、必然的に原子爆弾の製造に至る道が開けてくる。なんといっても二分法のデカルトの国である。科学の進歩を追い求めれば、とことん行けるところまでやるのだ。そこに、20世紀の科学のあり方の根源的問題も集約されているのではないだろうか。

放射能研究から核開発へ

フランスが原子力大国として世界に名を馳せるようになったのは、周知のごとく、戦後直後、米ソの二大陣営に属したくないフランスの自立した立場を維持しようとしたド・ゴール大統領による独自の核抑止力の政策が始まって以来である。

ともあれ、第二次世界大戦に至るまでにすでに放射能研究の重要な前史がある。ここから始めなければ、原子力の歴史が始まらない。なぜならポロニウムやラジウムの発見者として有名なマリー・キュリー(1)とピエール・キュリー(2)こそが「放射能」という言葉の生みの親であるからだ。キュリー夫妻と共にノーベル賞を受賞したアンリ・ベクレル(3)は、ウラン塩を研究して偶然、ウランの放射線を発見し、自分の名前が放射能測定の単位となった。キュリー夫妻の一人娘、イレーヌ(4)は原子物理学者となり、マリー・キュリーの助手フレデリック・ジュリオ(5)と結婚して、夫婦で行った人工放射性元素の研究によって1935年ノーベル化学賞を受賞し、フランスでの放射線研究は飛躍的に進歩した。その後、ジュリオ=キュリーは、1939年からハンス・フォン・アルバン、レウ・コワルスキーとともにウランの核分裂反応が連続して起こる(連鎖反応)と巨大なエネルギーが発生すること(臨界状態)を予測し、ある意味では、アルバンがアメリカに移住してから始まる「マンハッタン計画」より先行していたとも言える。

ただし、これらキュリー家を中心とする原子物理学者の悲劇は、放射能は人間に恩恵をもたらすものであり、健康に有害なものだとはつゆぞ思わなかったことである。そのため、研究過程で、多量の放射線を浴び、マリーも娘のイレーヌも、フレデリックも、またアンリ・ベクレルも白血病で亡くなっている。

原子力庁設立から核実験・核武装へ

イレーヌとフレデリック・ジュリオ=キュリーは、大戦直後の1945年10月18日、夫婦で原子力庁(CEA)の創設に参画する。原子力庁創設の趣旨は原子力の使用に関する科学的、技術的研究の継続が目的であった。医学や産業への適応も視野におかれたが、最初の主眼は何といっても核武装にあった。フレデリックは第二次世界大戦にはレジスタンス運動に参加した経験があり、ド・ゴール将軍からCEA 高等弁務官に任ぜられる。そして、最初の重水による小さな実験炉ゾエをパリ郊外のフォントネイ=オー=ローズのシャティヨン基地で完成させる。またウラン精製工場をパリ郊外のコルベイユに建設、そして中長期的に研究できる施設を同じくパリ郊外サクレイに求め、広大な土地を国が購入した。またこれらの研究に必要なウラン資源を求めるため、各地で地質調査が行われ、リモージュ地方に豊富にあることが分かった。ゾエは、1949年11月20日に数ミリグラムのプルトニウム抽出に成功する。しかし、ソ連は同年8月29日に最初の原爆実験を行った。そして冷戦が始まるのである。

だが、フレデリック・ジョリオ=キュリーは信念を持った科学者だった。共産党に属し、世界平和評議会の会長を務め、ストックホルム・アピールを1950年3月19日に採択して全世界に原爆放棄を訴えた。このアピールにはピカソ、シャガール、ショスタコヴィッチ、ネルーダ、アラゴン、プレヴェールなどの芸術家と共に、シラクやジョスパンでさえもが当時署名している。ジョリオ=キュリーは独自の核抑止力を保持しようとしたド・ゴール将軍と対立し、原子力庁高等弁務官職を罷免された。コレージュ・ド・フランスのジュリオ=キュリー研究班でウランの核分裂を研究していたフランシス・ペランが後を継ぐが、このペラン・チームがフランスの核兵器開発研究を促進させ、核武装を容易にしたのである。ペラン・チームを中心に核ロビーが形成され、第四共和制の代々の政権に、フランスの核ドクトリンを押しつけていったのだ。このロビーは、強力な政治力と機密性によって、あらゆる政治検閲から遠ざかり、原子力庁の中に極秘部門が作られ、1954年以降、フランスの核抑止力保持に向かって核兵器製造に関する情報はすべて機密にされた。その中枢に調整役として関わった政治家たちは、ド・ゴールとともにレジスタンスに関わり、フランス解放に一役買った政治家たちで、ジャック・シャバン=デルマス、また彼と親しい政治家モーリス・ブールジェス=モヌーリ(6)やフェリックス・ガイヤール(7)である。これらの政治家とフランシス・ペランなどCEAの物理学者たちがフランスの原子力ムラを形成し、核抑止力擁護の強力なロビー活動を行ったのだ。むろん、フランスが伝統的に国家主導型の非常に中央集権的な国家であることも無視できない。こうしてド・ゴール主義を支え、核戦略を保持しようとする方向性は、戦後の右派、左派問わず、肯定されることになった。それはまたフランスの保有する植民地や海外県などに対する国威掲揚のシンボルになった。

最初の核実験〈ジェルボワーズ・ブルー〉は1960年にアルジェリアで行われた。場所はアルジェリアのサハラ砂漠で、レガンヌの南部、タマンラセットから150kmの地点である。これはアルジェリアの独立を承認するエヴィアン協定(8)の中に機密の付帯条項があり、アルジェリアの独立と交換に、核、化学、通常兵器の実験をサハラで今後5年間行っていいという密約によって可能になったのだ。花崗岩の岩盤を水平に削った坑道内に仕掛けられた二回目の実験では、漏れてはいけない高濃度の放射能を含む煙が放出され、兵士や地域の住民が重大な被爆をしたが、すべて箝口令がしかれ、それらの被害が公に語られるようになったのは、2001年に長年反戦運動に関わっているブルーノ・バリオの提唱によって「フランス核実験ベテラン兵士の会」(AVEN)が設立され、被曝被害を訴えるようになってからで、アルジェリア住民被害に関しては、ここ数年のことである。レガンヌの実験では1966年までに地下実験13回、空中実験4回を繰り返した。放射能汚染や被曝について、アルジェリア政府は密約だったために、今まで被曝者の補償問題を持ち出しにくかった。アルジェリア国民もそのことを知らなかったからだ。だが、現フランス政権の植民地時代への認識の酷さから、アルジェリアは2007年に国際会議を催し、正式に仏政府に補償を要求するようになった。

アルジェリアの後、フランスは南太平洋のタヒチのモルロアでも1968年から1992年まで、地下と空中で核実験を重ね、210回の実験(165回の地下実験と45回の大気圏実験)を行ったことは周知のことである。つまりド・ゴール以後も、核実験を続行し、左翼ミッテラン政権でもシラク政権でも実験が継続され、保守派、そして仏社会党共に、核抑止力を肯定し、正義の最強軍事力として国の威信を発揮する手段となったのである。ちなみに仏共産党はジュリオ=キュリー以来、反戦平和路線を敷き、核兵器には反対であるが、科学の進歩は推奨すべきもので、エネルギー自立として原子力利用には賛成して来たから、原発には福島事故後の今でも賛成の立場を取っている。

こうしてフランスでは米ソ二大陣営に属さない第三の道としてのド・ゴール主義を貫いて来た結果として、フランス各地に核施設を抱え持ち、核兵器製造、原子力潜水艦製造などの基地が各地にある。例えばアヴィニョンに近いマルクール核施設(1956年完成)には軍事用プルトニウム抽出工場が1958年から操業を開始し、軍事用原子炉セレスタンが1967年から2009年まで、トリチウム生産(トリチウムを媒介に中性子を作って核分裂を引き起こさせる)のために稼働していた。またマルクールに比較的近いピエールラットのトリカスタン核施設には軍事用ウラン分離工場と濃縮工場がある。また南部カダラッシュ核施設には、様々な研究施設と共に原潜用の原子炉製造工場もある。ちなみに付け加えれば、このカダラッシュ核施設の脇に、ITER(9)の建設工事が現在、遅れながらも進行している。この研究計画は、炉の中に、ミクロな太陽(核融合)を作り出して実験する、ということだから、その危険度も高いのではないだろうか。

現在、フランスは348発の核弾頭を所有しているといわれ、アルビオン高原の発射基地が廃止された現在、戦略核ミサイルは、すべて原子力潜水艦による巡航ミサイルか爆撃機の搭載型ミサイルである。ミュージカル映画「シェルブールの雨傘」で有名なシェルブールには原潜建設工場があり、ブルターニュ半島突端のロング島には原潜基地(4隻)がある。原潜基地は地中海側に面したトゥーロン(6隻)にもある。また核兵器開発に携わっている施設は全国に21カ所もあるのだ。これらの核施設は、ラアーグの再処理工場も含めて、建設時に、ほとんど周辺住民には情報を流さないか、嘘をつくか、多額の交付金をばらまいて、建設を滞りなく終えているのだ。手口は日仏とも共通している。

2.民事核としての原発開発

フランスの原発状況と原発分布

フランスの原発状況と原発分布(クリックで拡大)

核兵器製造と管理、研究が中心だった原子力庁に、民事核として原発計画が上がったのは60年代後半からだ。ド・ゴール政権下で、1967年フェッセンエイム原発建設計画が決まり、マルクール核施設で最初の黒鉛減速/ガス冷却実験炉の製造に成功した後、天然ウランを用いた黒鉛減速/ガス冷却炉(UNGG)を建設することになった。しかし、ポンピドゥー政権下で、70年に再検討が行われ、加圧式軽水炉(REP)の優秀性が分かり、これに転換することになった。しかし、国営電力公社EDFは、すでに決定済みの黒鉛減速/ガス冷却炉をサン=ローラン=デ=ゾーに2基(1969〜1971年)とブジェイに1基(1972年、その後REP が3基建設、現在一号機は廃炉の最中)、シノンに1基(その後URGGが2基、REP が4基,うち前者3基が廃炉)と相次いで建設された。その後、米国ウェスチングハウス社のREP が採用されて、70年代以降、原発建設が相次ぐことになる。そこでふたつの型の軽水炉(加圧式と沸騰式)の特許の使用許可を取って、原発製造会社フラマトムとCGEの2社がこれらの公共事業を争うことになる。

その背景には、まず、70年代初頭の第一次石油ショック、そして中東紛争も大きく背中を押している。フランスが石油に頼り切らずにエネルギー自立を果たすためには、原子力開発がもっともいいと政治決断が下されたのである。ポンピドゥー政権を引き継いだジスカール・デスタン政権の下、メスメール首相は、とりわけ、加圧式軽水炉に選択を決めた。1974年には18基、1976年には10基の建設が始まったのである。そしてその大半は80年代に完成し、操業を開始している。

他方、核廃棄物の再処理工場は、マルクールの工場が一度事故を起こしたため、第二工場が必要と考え、また今後の核リサイクル(日本で言われているプルサーマル)を軌道に乗せるためにも、ノルマンディーはコタンタン半島の先端にあるラ・アーグに再処理工場を1962年から建設を始め、1966年から操業を始める。1969年、ポンピドゥー大統領は核政策の綱領を再定義し、核兵器用のプルトニウムは充分ある、これ以上のプルトニウムは不必要だという判断を出し、職員も350人に縮小され、あわや工場は閉鎖になるのではないかと危惧されたが、ポンピドゥーの後継者となったジスカール・デスタンは、すべて原子力に全面的に依存する方向性を決め、また核リサイクルに将来の可能性を託して、民事用の再処理をすることとなった。その背景には恐らく強力な原子力ロビーからの強い要請と圧力があったことは想像に難くない。巨額の権益が動くことになれば、当然だろう。

当時の核燃料公社コジェマ(COGEMA=現在はAREVA)は、フランス各地でウラン鉱脈を求めて全国で採掘し、ウラン鉱山が各地にできた。とりわけリモージュ地方は、露天掘りが大々的に行われた。その地方では、閉山の後も、採掘の窪地が開いたまま、風雨にさらされている。現場に行けば、ウランの黄色い小さい断片が落ちているのが見つけられる、という。

コジェマ社は1957年、カダラッシュ核施設に最初の高速増殖実験炉ラプソディー(1983年に閉鎖)を建設、1968年に、実証炉フェニックスをマルクール核施設に建設して、軌道に乗せ、商業用原型炉スーパーフェニックスへの建設の展望が開けてくる。時の首相ジャック・シラクは建設許可を1976年に出し、1985年に完成するが、3年半ほど稼働しただけで、液体ナトリウム漏れの事故を起こし、停止状態となった。その後、修理はされたものの不調が続き、まともな営業出力運転はほとんどできなかった。1997年、経済的効率性の見地からジョスパン首相はこの高速増殖炉の断念を表明した。この計画はイタリア電力Enel, ドイツのSBKとの合同開発によるもので、各国に一基ずつ建設予定だったが、予算の上で困難になり、フランスに一基だけ建設されたのである。閉鎖決定後、フランスから電力を供給することで、これらの国に賠償した。こうして長年かけた高速増殖炉計画は破綻し、原子力による永遠のエネルギーリサイクルの夢もはかなく破れた。その後、フェニックスは、原子力ロビーの抵抗で、核の転換研究に当てられ、核物質の放射性を減少させるための様々な研究が行われたが、結局、2009年に閉鎖が決定した。スーパーフェニックスの陰の任務は、核兵器用の純度の高いプルトニウム生産だったことを考えると、経済的破綻と冷戦の終焉で、今後の利用価値はないと見なされたのだろう。

これらの研究を総合すると、今後2〜30年の間に、核物質の放射性を減少させるための科学的知見は発見されないだろうと言われている。ちなみに、フランスの高速増殖炉の開発史を省みると、日本の「もんじゅ」で起こっていることをほぼ先取りしているわけで、最近、日本原子力研究開発機構の鈴木篤之理事長の「研究開発に軸足を移す」という発表も、10年以上前にフランスのアレヴァ社の科学者が高速増殖研究の延命のための口実に、フェニックスを核転換の研究に当てると語ったこととまったく重なる。そうしたところで、巨額の税金の無駄遣いになるだけだろう。

原発建設に関しては、こうしてシヴォー原発の建設を最後に、軽水炉の建設は停止し、しばらく原発の建設はあり得ないと考えられて来た。だが、原子力産業界では、何とか原子力再興を図ろうとするかけ声が2000年当初からかかっていた。新自由主義を標榜するサルコジ政権になって、世代交代のための新たな原発を作らないと原子力産業が潰れるという危機感もあった。またフランスが何でもありのグローバル経済市場の中で、国策として外貨を稼ぐ輸出の重要品目として目をつけたのが原子力技術だった、と言っても過言ではないだろう。それゆえ、アレヴァ社によって、フラマンヴィルで欧州新型軽水炉(EPR)が2007年から建設が開始されたが、すでに2年の工事の遅れが出ており、しかも工費も40%値上がりするという状況のなかで、EPRの経済効率を疑問視する声も出て来ている。最初にアレヴァが手がけたフィンランドのオルキルオトの計画もまだ完成せず、フラマンヴィルの建設も遅れに遅れているにもかかわらず、サルコジ大統領は二基目のEPRをペンリー原発に併設すると発表し、たいへんな物議を醸し出している。それでもインドや中国にEPR輸出契約を成功させているのだ。福島原発事故の後では、原子力保安院長官でさえ、フラマンヴィルのEPRを中止した方がいいのではないかとさえ発言しているにもかかわらずである。

これらフランスのみならず世界の原子力産業の大きな展開は、しかし、決定的な誤算があった。核のゴミの処理方法が科学的に確定できないのである。原子力が、着陸できる空港がないのに飛び立った飛行機とか、トイレなきマンションと言われる所以である。フランスは、ジャンヌ・ダルクの生まれ故郷に近い東部のビュールに、2000年から地下埋蔵研究所を建設し始め、2007年に完成した。これは本来、研究目的だけであり、バタイユ法によって、取り出し可能な埋蔵方法にするはずが、この粘土地層は埋蔵に最適であると無理やり判断を下し、ここにすべての高レベル核廃棄物を永久に廃棄しようとしている。現地では根強い反対運動が繰り広げられている。

モックス燃料(10)

日本でもモックス燃料は非常に問題になっている(福島第一3号機がそのケース)が、フランスでは、日本に先駆けて実行しており、ラアーグ再処理工場で処理された再処理済み核燃料がマルクールのメロックス工場に運ばれ、そこからまたトリカスタン原発4基、ブライ原発2基,シノン原発4基、サン=ローラン原発2基,ダンピエール原発4基、グラヴリンヌ原発4基と、すでに合計20基もの原子炉にモックス燃料を最大30%まで装填している。これを行わなければ、高速増殖炉のなくなった今、核リサイクルは論理的に破綻してしまうからだ。そのかわり、事故の危険性はずっとアップしたと言える。輸送場の問題、また苛酷事故があった場合の深刻さだ。

フランスの再処理と密接な関係にある日本

ラアーグ再処理工場は、日本の使用済み核燃料の再処理を委託されて、再処理を行っている。これは青森県六ヶ所再処理工場が稼働するまでという条件付きだが、セラフィールドにも委託していた。再処理された高レベル放射性廃棄物が1992年11月にシェルブール港から出航したガラス固化体28本がむつ小川原港に「あかつき」丸で返還されて来た。これがプルトニウムが海上輸送される世界で初のケースだ。1カ月以上かかってはるばる海上輸送で運ばれた。その後、2007年8月までに、12回、輸送が行われ、合計1310本が高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターに貯蔵されている。低レベルの廃棄物も、同じく「あかつき」丸で海上輸送されている。

現地の住民の反対派やグリーンピースは、日本が核のゴミを引き取ることは当然すべきことであるが、海上輸送という危険きわまりない方法によって輸送することに反対だとして、シェルブールでは船が出航する度に反対デモが行われている。確かに最近の世界状況のなかではテロにあう可能性も指摘され、そのため、護衛船が付き、航路は極秘にされている。2009年にも秘密裏に輸送が行われた。この海上輸送は、結局、再処理をすべきかどうか、という原子力行政の根源に問題は戻ってくるのである。イギリス、フランスに保管されているプルトニウムを含めると、日本は45トンのプルトニウムを所有していると推計されている。

原発労働者の実態

原発の下請け労働の状況は、日本もフランスも非常に似ている。原発労働のもっとも危険な仕事の80%は、外部の下請けから孫請けまで7つの会社が取り仕切っている。この状況は日本と類似している。現在、フランスの原発の定期点検や事故などの修理作業や汚染除去作業に関わっている労働者は22000人から35000人と言われている。

これらの期限付き(つまり不安定)労働者は、ほとんどが3カ月ごとに下請け企業を点々と変わり、常に各地に移動しているので、実態の把握が難しい。原発労働者の被曝によるガン発生率は、1〜2%と公表されているが、その労働者の実数には、以上の下請け労働者は含まれていないのである。彼らの年間被爆量は20mSVと決められているが、しばしばそれは守られない。80年代は50mSV(5rem)だったという。彼らに対する追跡健康検査はされていない。彼らの被爆事故も、職を失うことを恐れる労働者が自己申告しない、あるいは雇用者の下請け企業が評価が下がることを心配して隠蔽するなどが、頻繁に起こる。

とりわけ、フランス電力公社EDFが2004年に民営化され、2008年フランスガス公社も民営化されてスエズと合併し、アレヴァは多国籍化して国際企業になると、経済競争の激化により、下請け企業の競争も激化してくる。月給は1500ユーロ前後と、低賃金である。共産党の影響力が強いと言われる労働組合CGTは、さすがに今年の4月に下請け労働の廃止を求めたが、EDFは、経済効率を理由に拒否している。そして雇い元のEDFは下請け企業の雇用条件まで管理していないのが普通だ。

EDFは下請け企業労働者に対して、研修を行うこともあるが、被爆の後発性発ガン危険性については、一切説明はない、という。基準値を守っている限り,健康にはまったく問題ないという形である。しかし、生涯50レム以上被爆すれば、発ガン率が2%高まり、下請け労働者の中にはゆうに50レムを越える労働者がいる。

今年の9月に下請け労働者の労働条件の改善を国と原子力産業に求める署名運動を始めた。その署名運動では、退職55歳、原発施設の専門医による追跡調査、年間被爆線量を20mSVから10mSVに下げる、労働災害での被爆の認定、職業研修による能力認定などを要求している。

フランスでも繰り返す原発事故

1969年、サン=ローラン=デ=ゾー原発での核燃料溶融事故はレベル4の重大事故だった。同じ原発で、1980年にも同じ溶融事故が繰り返される。1981年のラアーグ再処理工場の貯蔵所で火事が起こり、電源部が燃え、冷却装置が稼働しなくなり、移動発電機をシェルブール軍港から急遽運んで難を逃れた。1998年にはシヴォー原発で配管破断事故が起き、冷却機能が失われて、すんでのところで苛酷事故になるところだった。1999年にはブライ原発が嵐に見舞われ、洪水が起こって、冷却機能がストップし、緊急システムもストップして、この事故も苛酷事故が起こる寸前で、一難を免れた。2003年には猛暑で、ゴルフェック原発の冷却用の水を取り入れている河の水位が下がり、炉の温度が上がりすぎて、緊急停止した。たしかにレベル2〜3以上の事故は比較的稀だが、0から1の事故は毎年100件以上あるのだ。これらの事故レベルが一挙に高くなることも、ありえないことではない。
福島の事故があってから、物理学者ベルナール・ラポンシュとベンジャマン・ドゥシュは、フランスで福島のような苛酷事故が起こる公算を73%と見積もり直した。

原子力産業の再編とフランスのグローバル・ビジネス戦略

1990年以降の新自由主義によるグローバリゼーションは原子力産業自体を大きく再編していった。世界のプラントメーカーは国内でも合併を繰り返し、世界規模でも行われた。今は世界で、大きく分けて、米国のジェネラル・エレクトリックGE、ウェステイングハウスWH、アレヴァAREVAの三社におおよそ集約されている。三菱重工はアレヴァと提携、日立は、新たに日立GEを設立し、東芝は米国WHを買収した。アレヴァは、3つの子会社を持ち、AREVA NPは原発建設とエンジニアリング、再転換、燃料加工など、 AREVA NCはウラン鉱山開発、転換・濃縮・再処理など、AREVA T&Dは送電と配電を担当している。

しかし、それにしても現サルコジ政権のなりふり構わぬ国がかりの世界ビジネス戦略は、目に余るものがある。3月末に、事故後、いち早くサルコジ大統領とアレヴァ社のローヴェルジョン(前)会長が日本に来て、アレヴァの汚染除去装置を何億円もの額で売りつけた話が報道をにぎわしたが、この除染装置は数億円を投資するほど果たして有効性があるものなのだろうか。ラアーグ再処理工場では、毎日、原発が1年で排出する放射能の3〜4000倍の放射能を放出し、合法的、非合法的に海や川に汚染を垂れ流している。オスパール海洋保護条約では、2000年6月29日に定例会議が行われ、デンマーク、アイルランド、アイスランド、フィンランド、ドイツ、オランダ、ノルウェイ、スウェーデンの8カ国の共同提議で、ラアーグとセラフィールドが垂れ流す放射能によって、北海の海域が非常に汚染されて来ているので、再処理停止と使用済み核燃料の乾式貯蔵を求める決議がされたのだ。ラアーグの再処理事業を行っている当のアレヴァがこのような事態であるのに、どうしてアレヴァが売る除染装置が信用に足ると言えるのだろうか。摩訶不思議な話である。否、事後処理に科学的合理性のある展望が持てない東電や政府は、わらにもすがる思いなのだろう。また10月に訪日したフィヨン首相が、六ヶ所再処理工場がうまく操業できないことを尻目に、核廃棄物の再処理をフランスが引き受けると盛んに売り言葉をかけていったようだが、そのことはこちらのマスコミに流れない。ラアーグの再処理工場は年々少なくなる仕事で、困っているからだし、日本のモックス燃料をマルクールのメロックス工場が受注できないと、工場の経営が傾くからなのである。

3.反原発運動

これだけの原発大国になるまでに、どのような反対運動があったのだろうか。

最初の反核運動は、冷戦が開始される中で、ギュンター・アンダース(11)は1956年に「原爆について、そして人類の破局を前にしての私たちの無知の原因」を著し、影響を与えた。1957年にイングランドのウィンズケール(現在のセラフィールド)の最初の重大な汚染事故が起こったが、一般には知られなかった。イギリスで、バートランド・ラッセルが非核武装運動を起こして行進し、平和運動の原点となっていく。

フランスでは、1947年、共産党の政治局員であったシャルル・ティヨンによって1947年に立ち上げられた平和運動(ムーヴマン・ド・ラペ)があったが、参加者の大半がレジスタンスの闘士であり、この運動はまずファシズムと闘うものだった。ジュリオ=キュリーのストックホルム・アピールによって、この運動体は反核兵器運動を鮮明にした。その後、1963年に原爆反対運動(MCAA)がクロード・ブールデ(12)やジャン・ロスタン(13)によって、立ち上げられた。

1971年4月12日、原発建設に反対する初めてのデモがフェッセンエイムで起こった。1970年に作られた「フェッセンエイムとラインの平野保護のための委員会」がデモを組織して、数度,3000名ほどのデモを行った後、15000人ほどの参加者を得た。同年7月10〜11日にはブジェイ原発建設に反対するデモが、やはり15000名ほどを動員して行われた。1975年、ドイツではフランス東部国境のライン河に近いヴィール原発建設場が、25000人の反対派によって8カ月占拠され、その後スイスからライン下流地方の12の原発計画が断念されたのである。こうした隣国ドイツの動きは、フランスの市民運動にも大きな影響を与えずにはおかなかった。

1976年7月4日のフランス東中部、クレイ=マルヴイルでの高速増殖炉建設計画反対への平和的座り込みでは、2万の参加者を数えた。翌年7月31日の同じマルヴィルでの反対闘争では、イタリア、ドイツ、スイスからも多く参加し、6万人が動員された。その中には、実力行使も厭わないという組織も多くあり、当時のやり方で、棒や鉄材、火炎瓶を持っていた。警察も徹底的に弾圧する方針を持っていた。5000名の国家保安隊(CRS)と憲兵隊、ヘリコプター、装甲車、橋仮設車などを動員し、前日から建設予定地への立ち入りを禁止して、万全の体制で臨んでいた。建設に反対する地域の村会議員や町会議員は予備拘束されて、当日一日中拘留されていたのだ。

機動隊を前に、数千人が対峙し、投石、火炎瓶投げが始まり、機動隊も催涙弾を打ちまくった。31歳の若き物理学者ヴィタル・ミシャロンは目前で爆発した催涙弾の爆風をまともに吸い込み、肺が破裂して亡くなった。また数百人が重軽傷を負い、ふたりは手、足を破断するという重傷を負った。警察側も5人の負傷者を出した。以後、催涙弾の水平打ちは禁止された。反原発運動史の中でもっとも大きな激しいデモだった。これだけの大動員をし、1人の死者と多数の負傷者を出しながら、この反対運動は成功しなかった。だが、建設された高速増殖炉は、様々な事故が重なってまともに稼働せず、13年後に廃炉が決まったのは前述した通りである。莫大な資金を散財して止まったスーパーフェニックスの顛末をミシャロンの墓標の前で見る時、時代の運命の苛酷を思わないわけにはいかない。

その後、もう一つあった大きな闘争はプロゴフである。この闘争は勝利を勝ち取った。ブルターニュはフィニステール県の最先端に予定されたプロゴフ原発建設計画反対闘争では、デモには、1971年から79年まで続いたラルザックの軍事訓練場拡張反対闘争に参加した活動家やマルヴィルの闘いに加わった参加者たちが支援に駆けつけ、反対デモは3000名から、20000人に膨れ上がり、実力闘争が行われ、プロゴフの村長、村民が一体となった闘いが組まれた。それゆえ、彼らはブルターニュのパレスチナ人とまで言われた。しかし、これら一連の〈68年5月革命〉的闘争形式は、その暴力性への一般市民の拒否反応と、81年、就任したミッテラン左翼政権によって、プロゴフ原発計画が白紙撤回され、またラルザックの基地拡張計画も同様に中止決定されたこともあり、潮が引いたように、少なくなっていった。だが、プロゴフ以降、ブルターニュでは原発計画が立てられない。1997年にナント市の近くのロワール河の中州カルネに原発計画が持ち上がった時も、2万人の反対デモが起こり、30キロ近くを人間の鎖でつなぎ、デモを成功させた。その間、様々な交渉もあったし、ナント市内では、8000名のデモも再度組織されたが、結果的に、この計画は中止に追い込まれた。

市民による測定と監視を!

レンヌのデモ

レンヌのデモ

1986年のチェルノブイリ事故では、ヨーロッパ各地は言うまでもなく世界中に放射能の雲が飛散したのは、今日では周知のことである。しかし、1986年4月の時点では、フランス政府、保安院などは、情報をひた隠しにして、放射能の雲はドイツ国境から西には来なかったという報道がなされた。フランスの南部の科学者たちは、それを察知して、当局の嘘を暴いた。とりわけ、創設メンバーの一人、生物学者ミシェル・リヴァジを中心に科学者たちはその翌年、南仏のヴァランスに「放射能に関する独立情報研究委員会」(略称:CRIIRAD)を創設した。以来、フランスの原発銀座と言っていいローヌ河周辺の原発やマルクール、カラダッシュなどの核施設の放射能汚染を監視すると同時に、地域自治体などの放射能測定依頼や分析なども行っている。 CRIIRAD(14)は、2011年5月から6月に測定班を福島に派遣し、福島、茨城、東京と測定して、その結果を発表している。また福島の市民測定所(CRMS(15))設立に測定機材を貸し出すなど、尽力している。先日のマルクール施設に近いセントラコ施設の金属材溶解炉爆発事故では、保安院(ASN)、また放射線防護研究所(IRSN)など管理当局が発表した放射線量は、現実の476分の1であることをCRIIRADが暴露し、また操業会社のソコデイ社を追訴した。亡くなった作業員は放射能を浴びて、棺桶は鉛張りであった。工場職員は、マスコミやジャーナリストとの接触は一切禁止され、政府当局、アレヴァも情報をまったく流さない。こうした情報の隠蔽、矮小化はどの原子力産業でも得意の業である。こうした状況を見ても、市民による監視と測定が不可欠であることは明白だろう。

フランス西部にも、市民の監視測定研究所ができた。カーン郊外にある西部放射能監視協会 (ACRO(16)) がそうで、この組織はカーン大学の生態学系の教授や物理学の教授たちが中心となって、90年代に創設されたもので、とりわけラアーグ再処理工場を監視する目的で造られた。市民に多くの貢献をしているし、福島のこどもたちの尿検査や土壌測定などでは日本にも貢献しているが、ある時期から国の様々な委託事業や諮問委員会などに理事たちが参加するようになって、本当の意味での独立した情報が発信できるのか、疑問符が投じられている。

反原発から脱原発運動へ

各地で個別に闘っていた地域の反原発運動は、それまで〈ストップ・ブジェイ〉、〈マルヴィル委員会〉などが〈全国反原発連絡委員会〉を作っていたが、1997年、スーパーフェニックスの廃炉決定に伴い、同年、アジャンで行われた総会において、反原発ではなく、脱原発の具体的な道筋を示すべきだということで、脱原発憲章が作られ、新たな再編を行い、〈脱原発ネットワーク〉(17)と名付け、再出発した。最初の署名団体には、〈核廃棄物地下埋蔵に反対する全国連絡委員会〉、グリーンピース、マルヴィル委員会、〈ストップ・ゴルフェック〉、〈地球の友〉、〈ストップ・シヴォー〉、FRAPNA(環境保護団体)、緑の党、LCRなどが当初、参加した。特筆すべきことは、このネットワークに、今まで反原発運動にあまり興味を示さなかった反核兵器運動の諸団体が参加したことだ。翌年98年には、ビュールに地下研究所建設が予定された時に、核のゴミ問題を全国的にアピールし、現地でも大きなコンサート集会を開いた。また〈ストップ・EPR〉を組織し、シェルブール、レンヌで大きな反対デモを2006年,2007年と続けて行った。

現在では、英国、スイス、イタリア、ドイツの団体も含む915の市民団体、延べ54164人の集合体となっている。彼らが構想し提言しているのは、ここ5〜10年内の脱原発だ。〈脱原発ネットワーク〉以外にも、即時の脱原発を訴える急進的な集団〈ストップ・ニュクレエール〉もいくつかのネットワークを持っている。グリーン・ピースやこれらの諸団体は、国の諜報機関からも、フランス電力会社からも目をつけられて諜報されている。彼らが組織するデモはどんなに小さくとも、私服の公安や諜報機関の調査員がはり付いている。フランスでは、原発はすぐ核兵器と結びつくから、警察側からは、テロリストのように危険視されているのだ。ラアーグ再処理工場の周辺をぶらぶら散策していると、10分もしないうちにパトカーが尋問に来る。9・11以来、この工場の周りには対空ミサイルが常設されている。この地域で長年、反原発、反再処理工場運動を長期にわたって行い、県会議員や欧州議員を務め、緑の党の創設メンバーでもあるディディエ・アンジェは、核に関われば、常に民主主義が蹂躙される、しばしばと言う。彼は土地に根ざし、土地を愛し、ローカルな運動をこよなく大切にしている。こうした地域に根ざした運動家が地方にはたくさんいるが、彼らは、非民主的な方法で土地を奪い、荒廃させる原子力に反対する根源的な理由を肌で感じているからだ。

4.福島以後

福島事故が起こって、フランスの民意は大きく変化した。『ル・パリジャン』紙のような保守の主要新聞が行った世論調査でも、62%の人たちが脱原発を望み、『ル・ジュルナル・デユ・ディマンシュ』紙の世論調査においても77%が同様の意思表示を行っている。大統領がどのように叫ぼうとも、チェルノブイリ事故の25年目に同事故に勝るとも劣らない同時多発原発事故が起きてしまった福島は、今までどちらかというと原子力に信頼を置いていたフランス人に、生きている存在基盤そのものがやられてしまう恐怖感を教えたのであろう。ボルドーの赤ワインで有名なアキテーヌ地方圏議会は、原発をこれ以上開発せず、脱原発に向かうべきだとする決議を地方議会で初めて採択した。それもそのはず、1999年の洪水で、あわや苛酷事故になる寸前まで行ったブライ原発のある地域で、当時、ボルドー市は全市民を非難させるべきか、検討に入ったところまで行った経験を持つだけに、福島は他人事ではなかったのだろう。いまや民意ははっきり変わったと言って過言ではない。6月11日のパリの国際行動デー・デモでは、在仏日本人含めて、5000人以上がデモをしたし、10月15日の地方間デモ〔地方と地方を結んだ横断的なデモ〕では、25000人以上がデモに参加した。ブジェイのような過疎地でも、3〜4000名が行進した。これらの動員から見ても、フランスの民意は大きく変わりつつあるのは確かだ。(2011.11.1記)


(1) 本名マリア・スクウォドフスカ=キュリー(1867-1934):ポーランドはワルシャワの下級貴族の子として生まれる。1891年、パリに移住。ソルボンヌに登録後、貧困,窮乏の中で勉学に励み、学士号を取得。1895年にフランスの物理学者ピエール・キュリーと結婚。1903年、博士号を取得。同年12月にノーベル物理学賞、放射能の仏語radioactivitéは彼女の造語。ポロニウム、ついでラジウムを発見。この発見で1911年単独でノーベル化学賞を受賞。1906年に最初のパリ大学女性教授となる。夫のピエールの遺志を継ぎ、パリ大学に立派な研究所設立に尽力する。女性差別や人種差別に合いながら,科学者として世界的名声を獲得し、また先駆的フェミニストとも言われる。晩年、再生不良性貧血症で死亡。研究生活で被爆した放射能のせいだと言われる。

(2) ピエール・キュリー (1859-1906):フランスの物理学者。結晶学、圧電効果、放射能研究の先駆的研究で天才的知性を若いときから評価された。「キュリーの法則」、「キュリーの温度」、「キュリーの原理」などの発見者として有名。1895年にマリア・スクウォドフスカ(後のマリー・キュリー)と結婚。夫婦の放射能についての共同研究でノーベル物理学賞を受賞。1906年,馬車にひかれ即死、46歳で没する。

(3) アンリ・ベクレル(1852-1908):物理学者。国立工科学校卒。祖父、父共に物理学者。ウラニウム塩の蛍光作用を研究。X線と同じ性質のものかを研究するうちに、ウランの放出するアルファ線が写真乾板につけた痕跡から、そのウランの自発性放射能を発見する。これらの研究を評価され、マリー/ピエール・キュリーと共にノーベル物理学賞を受賞する。ベクレルは放射能の測定単位となった。ベクレルも別荘のあるコワジックで 再生不良性貧血症のため死亡。苗字が単位となったベクレルは、放射能の量を表わす単位で、1秒間に原子核が崩壊して放射線を放つ放射能の量が1Bqである。

(4) イレーヌ・ジュリオ=キュリー(1897-1956):マリーとピエール・キュリーの一人娘で同じく原子物理学者、化学者。パリ大学で母のラジウム研究所に入り、母の助手となった。同じく母の助手をしていたフレデリック・ジュリオと知り合い、1926年に結婚。自然放射能を研究している中で、人口放射線を発見。その功績で、夫婦で1935年ノーベル化学賞を受ける。1936年国民戦線内閣の科学研究担当国務次官となるが、健康悪化のため、3カ月で辞職。その後,コレージュ・ド・フランスの助教授からパリ大学の教授となる。夫と共に原爆研究計画に参加。1950年世界平和協議会国際平和賞を受賞。1956年、長年の放射能研究で白血病になり、死亡。夫のフレデリックも2年後に同じ病で死亡する。

(5) フレデリック・ジュリオ=キュリー(1900-1958):物理学者,化学者。マリー・キュリーの実験助手となって、イレーヌと知り合い,結婚。原子構造を解明する研究に妻と打ち込む。1935年にノーベル化学賞をイレーヌと共に受賞。1937年コレージュ・ド・フランス教授となる。大戦中,ナチスの占領を恐れて、ユダヤ系の二人の同僚アルバンとコワルスキーをイギリスに逃亡させる。1941年、レジスタンス運動に参加、活動家たちは彼の実験室で秘密裏に会う。44年のパリ武装蜂起に参加。45年に原子力庁高等弁務官。後,現在のマリー/ピエール・キュリー研究所の前進,ラジウム研究所の責任者となり、研究を指導。58年科学アカデミー会員。58年に白血病で亡くなる。

(6) モーリス・ブールジェス=モヌーリ(1914-1993):レジスタンス運動に参加したトルコ系フランスの政治家で、急進社会党所属。コティ政権時代に内務相、防衛相を務める。防衛相時代にフランスから武器を購入したシモン・ペレスにイスラエルの最初の原子炉ディモナ購入を容易にした。

(7) フェリックス・ガヤール(1919-1970):レジスタンス運動に参加したフランスの政治家で、急進社会党所属。コティ政権時代に首相職にあたる評議会議長、財務相を務め、核武装を目指した原子力庁の発展、予算獲得に寄与した。また最初の核実験を1960年にやると計画決定したのは、ガヤールが首相の時。

(8) エヴィアン協定:1962年フランス側レマン湖畔のエヴィアン=レ=バンで、行なわれたアルジェリア独立のための平和協定。仏政府とアルジェリア民族解放戦線(FLN)との間で締結され、それに基づいて国民投票が行われ、99.7%の賛成を持って、アルジェリアは独立した。

(9) 国際熱核融合実験炉(イーター):工事は2008年から始まっている。http://www.iter.org/

(10) モックス燃料(Mixed Oxides)とは、7%のプルトニウムと93%の劣化ウランを混合させた燃料。プルトニウムに二酸化プルトニムと二酸化ウランが混ぜられるためそこから名前ができた。放射能の毒性は、普通のウラン核燃料に比べて、5〜7倍高い。

(11) ギュンター・アンダース(1902−):ポーランド出身のドイツの哲学者。ハンナ・アーレントと一時期結婚していた。人類の滅亡と破局を常に考え、反核運動、テクノロジー批判を行って来た。

(12) クロード・ブールデ(1909-1996):キリスト教系左翼で全体主義に闘ったレジスタンスの闘士、作家、ジャーナリスト。

(13) ジャン・ロスタン(1894-1977):作家、生物学者、科学史家。アカデミー会員。劇作家エドモン・ロスタンの息子。

(14) CRIIRAD:http://www.criirad.org/

(15) 市民放射能測定所:http://www.crms-jpn.com/

(16) http://www.acro.eu.org/

(17) Réseau Sortir du nucléaire : http://www.sortirdunucleaire.org/

原子力基本法改悪に断固抗議する緊急アピール