なんの議論もなく原子力規制委員会設置法の付則に書き込まれた「安全保障に資する」という文言。これはわが国が核保有の可能性を公然と自認する行為に他なりません。私たちassociations.jpは断固これに抗議し、この変更の削除・撤回を求めるとともに、この事態をどう認識すべきか、3・11原発事故によりあからさまになった、国民を原子力の壁の中に繋ぎとめようとする国家に抗して闘うために、緊急アピールを発表しました。以下にその全文を掲載します。
associations.jp 緊急アピール ● 2012.7.16
私たちの解放闘争のために
──原子力基本法「改悪」に対して断固抗議する
はじめに──
去る2012年6月20日、原子力規制委員会設置法が成立し、同法の付則で原子力基本法の第二条「基本方針」に変更が加えられ、原子力利用の安全確保は「我が国の安全保障に資することを目的」として行われるという文言が追加されることになりました。原子力の利用自体の是非が厳しく問いただされているなか、それを何ら省みることなく、事実上、基本法に原子力の「軍事利用」の可能性が明記されてしまったのです。こうした重大な変更と決定が、ほとんど何の議論もなされないまま、速やかに、密やかに、行われていたということは、新聞などでも報じられたとおりです。
そしてその数日前には、すさまじく恣意的な論理と強引なやり方で、定期点検中の関西電力大飯原発三・四号機の再稼動が決定されたばかりでした。このきわめて危険で退行的な流れをどう考えればよいのか。この危機にいかに対峙するのか。私たち、全原発即時廃炉を求める有志の集まりであるassociations.jpは、一連の出来事を受けてここに抗議の声をあげ、基本法追記の撤回を求めるとともに、こうした状況に抗っていくために必要となるであろう思考の道程をしめしたいと思います。
核の「抑止力」という発想──
まず問うべきは「安全保障」という概念そのものについてです。原発導入にいたった日本の戦後期から現在にかけて、原子力の「平和利用」の有効性と将来性がさかんに喧伝されてきた一方で、つねにその影としてつきまとっていたのは「軍事利用」の──すなわち核開発・保有の──潜在性であったことは事実です。その証拠に、たとえば自民党の塩崎恭久は上記の文言を基本法に盛り込むにあたり、「核の技術を持っているという安全保障上の意味はある」「日本を守るため、原子力の技術を安全保障からも理解しないといけない」と説明しています。つまり、核燃料を軍事転用する技術を持つことが「抑止力」につながる、という従来から見られた発想です。今回の問題で非常に深刻なのは、そうした「抑止力」としての核という位置づけ、さらに実現可能かどうかはべつに、将来の核保有の可能性までもが、実際に法に書き込まれたために、たんなる見解の段階を超えた次元へと移行してしまったという点にあります。そしてここには明確に名指されずとも、「安全保障」と対になって、ある特定された敵対性が示唆されており、その「敵」の軍事力の抑止、「敵」からの防衛というニュアンスが自ずと浮かび上がってくることになります。
「敵」とは誰なのか──
この「安全保障」という言葉には、安全をおびやかすもの、すなわち「敵」という存在が含意されています。むしろ「安全保障」という文言が用いられる時には、こうした存在の自明さが肝心なのでしょう。「安全保障」=「抑止力」の必要性が述べられるだけで、「敵からの脅威」の可能性というメッセージが発せられる。そして、現実的に考えれば安全保障は必要、さらには、エネルギー問題を抜きにして、この観点から見るだけでも原子力の維持は不可欠、というロジックへと誘導されるのです。これによって、原発は高コストという議論にも対抗できるでしょう。
しかしこれはまったくの推論、いや、虚妄にもとづいた因果関係のロジックでしかない。そもそも私たちは本当のところ、彼らがほのめかす「敵」に脅かされているのでしょうか。むしろ「敵」についての話によって脅かされていると言えないでしょうか。脅迫している主体は「敵」ではなくて、その「敵」の意思を語りたがる側なのではないか。このロジックのなかでは、目の前で現実に累積している問題の数々、「国民」と「国家」のあいだに潜む亀裂ないしは敵対性が、国境線の向こう側に存在する「敵」や「脅威」にすりかえられようとしています。そしてその潜在的な敵対性があたかも存在しないかのように、あるいはそれを抑圧するために、「国家」から脅迫がなされるというわけです。
同様のロジックは原発に関しても用いられています。根拠が不確かな数字を並べて「電力不足」の不安を煽りたて、停止中の原発再稼動を決定していこうとするあのやり方。これはまったくの脅しと騙しの手口に他なりません。基本法での「安全保障」の追記と原発再稼動決定が時をおかずしてなされたことからも、現実の脅迫の主体は「国家」であり、脅迫を受けているのが「国民」であることは、もはや明らかです。
囚われの身である私たち──
6月8日に行われた野田首相の記者会見冒頭発言でも、はっきりと「国民」への「脅迫」が語られています。「国民の生活を守る」ために「福島のような事故は決して起こさない」(=安全の確保)、さらには「計画停電や電力料金の大幅な高騰といった日常生活への悪影響をできるだけ避ける」(=安心の確保)という事項が並列されて、原発再稼動の理由づけにされているのです。
これを解読すれば、「安全」と「安心」を獲得するために「国民」が全員で痛み分け(=原発の維持)をすべきである、との指令が国家から発せられていることがわかります。さきにも述べた「敵」や「脅威」という幻影の強要とおなじです。つまり同一のロジックがもとになった千変万化の幻影がことあるごとに持ちだされて、私たちを「国民」としてとどめおき、「国家」につなぎとめ従属させるための脅迫がなされていると考えられます。言うなれば、「国民」は「国家」が構築する原子力、および核の壁の内部に囚われて、監禁された状態におかれているということになるでしょう。
さらに言えば、私たちを包囲するこの壁を「安全保障」=「抑止力」の面から考えてみると、もうひとつ、ほぼ不可視化されたものがあることに気づきます。すなわち日米安保体制です。日本の「防衛」というなかば虚偽の名目で続けられる米軍の駐留には、無論、近隣諸国に対する「抑止力」、つまり「脅し」としての機能の意味があるとともに、私たちに対しては「米国に従属する国民」という立場を強制する意味も含まれます。日本という「国家」は日米安保体制からの離脱を思考の埒外に置いてきたにもかかわらず、この期に及んで原子力の軍事利用の可能性まで持ち出し、「国民」を幾重にも包囲しようと企んでいると言えるのではないでしょうか。
私たちの大半が、あたかも無色透明であるかのようにあつかっている日米安保という巨大な壁は、とりわけ沖縄では、現実にはりめぐらされたフェンス、危険と恐怖、恒常的な暴力としてはっきり目撃されているものです。沖縄の人びとだけではなく、この「日本」と呼ばれる土地に身をおきながらも「国家」の壁から排除されている人びとは、当然ながら高くそびえ立つ暴力と脅迫の壁に──したがって今回の「安全保障」の問題にも──敏感であらざるをえません。つまり、内部の囚われ人に虚妄の安全・安心が創り出される裏側で、この人びとは常に現実の暴力と脅迫に直面させられてきたのです。
脅迫への抵抗──
ようするに、今回の「安全保障」の問題は、来るべき戦争を見据えたものというよりも、むしろ「政治」が「脅迫」に置きかえられ、「核保有の可能性」という脅し文句が法に書き込まれたことを意味します。本当の脅威とは、すでに述べたように、近隣諸国でもなく、エネルギー不足でもない。それはあの手この手で脅しをかけてくる国家であり、さらには、原発事故でばらまかれた放射能であると言えます。放射能からは逃げるしかない。しかし、放射能を強要する国家──「安全宣言」は裏を返せば、そこにとどまり続けろ、汚染を受諾せよという脅迫です──には断固として挑み、立ち向かうことができます。そのためにも、私たちがまずなすべきことは、原子力産業などと結託して原発維持と放射能汚染を無理強いする国家、あげく未来の核保有までもをちらつかせる国家に抵抗し、その脅迫の包囲網をうちやぶって、その外側へと向かうことでしょう。それこそが私たち自身の「解放」に向けた闘いではないでしょうか。
そして今まさに、私たちはこの闘いに覚醒しつつあります。──新たな闘争の幕は切って落とされたのです。