台湾における新たな土地囲い込みに抗して

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2014年2月25日に京都で予定されていた林暉鈞×柄谷行人「台湾╱日本社会運動講演・交流会──新囲い込みに抗する」の講演原稿を掲載します。

台湾における新たな土地囲い込みに抗して “The New Enclosure Movement in Taiwan”

林暉鈞

巨大な不動産屋

2009年12月1日、台湾における「国土清理活化督導小組」が行政院の下で成立し、国土の再開発によって20兆元(台湾元/1元は約3.3円)の収益を上げるという目標を提示した。勿論、それは何らかの新しいものでもなく、既に進行していた事態の再確認だけでしかない。が、その公然とした宣言によって、事態は一層深刻になってきた。

この十数年、台湾の政府は手段を選ばず、至る所の土地を徴収して財団に売ってきた。名目はさまざまだが、結局、土地は少数の財閥に集中した。過去活躍した製造業も生産を止めて資金を土地に投下する。2013年、土地や建物に関するローンはGDPの60%を占める。この十年間、製造業の利潤率は20%を下回り、不動産の平均価格は50%も上がった。首都の台北市において、三倍以上も上がった。しかし、労働者の平均給料はこの二十年の間、全然変わらなかった。言うまでもなく、それにともなったのは深刻な格差である。

不動産の値段が高騰しても、買い手がいないといつかバブルと化していく。それに対して台湾政府がとった対策は、2010年のECFA(海峡両岸経済協力枠組協定)である。それによって中国資本が台湾の土地や不動産を買うことが可能になった。更に、新聞で話題になっていなかったが、2014年からは中国資本が台湾の土地や不動産の買収をする際の規制緩和が始まる。それは勿論グローバルな新自由主義の流れを汲む現象だが、後で言うように、台湾の問題の固有性がある。それは、中国の問題である。

現在、土地投機は全国的な運動になった。中央から地方まで、大学も含めてあらゆる政府の機関が関与している。国全体がひとつの巨大な不動産屋と化している。

三つの悪法

台湾での囲い込みは、不動産投資家に都合のよい法律によって合法的に行われている。私はそれを三つの悪法と呼びたい。

その一、「都市更新条例」である。

「都市更新条例」が作られたのは1998年である。それ以前は、建物の改築や増築は土地や建物の所有者の合意を得なくてはならなかった。1998以来、その「都市更新条例」の二十二条によって、多数決によることになった。いわゆる「実施者」(都市更新事業を行う機関、機構や団体。ほとんどの場合は、建築業者である)が住民に知らせずに勝手に区切り、更新事業の企画書を役所に提出することができる。役所に承認されたら、区切られた区画の中の住民を説得し、地主の三分の二、土地面積の四分の三の同意を得れば更新を実行できる。残りの三分の一の地主は反対する権利がない。異議があっても強制的に従わせる。

住民はいったん同意書を出したら撤回することはできない。実施者のみ、区切りや計画を変更する権利を持つ。そしてその権利を他の業者に移転することもできる。住民は異議を主張する権利がない。この「区切り→多数決→区切り変更→多数決」のプロセスを繰り返せば、どんな範囲でも「都市更新」を実行できる。

そして、同条例三十六条に従い、実施者の公告した日から三十日以内に、範囲内の地主が自ら自分の建物を取り壊さなければならない。その期限を超えたら実施者の要求によって公権力が介入する。士林王家の例(後述)はそのケースである。

更に、「都市更新条例」に伴う「都市更新建築容積奨励方法」によって、建築業者は膨大な利益を得られる。もともと容積率制限は、消防や安全や都市発展のために制定されている。「都市更新建築容積奨励方法」によって、ある条件を満たせれば(例えば植木)15%から20%までの「容積奨励」を得られる。そしてその「容積奨励」を売買、あるいは他の場所に移転することが可能である。例えば値段の安いA地で得られた容積奨励を、値段の高いB地で使う。こうして容積率制限本来の意義はまったく失われてしまった。

次は、「土地徴収条例」である。

「土地徴収」は二種類に分けられている。「一般徴収」と「区段徴収」である。「一般徴収」の場合では、政府が「公告地価」の140%を土地の持ち主に現金で払う。「公告地価」は市場の地価とかなり差があっても、政府がお金を用意しなければならない。一方「区段徴収」の場合では、政府が一銭も払う必要がない。

「区段徴収」という名目は法律的に明確な定義を持たない。そのやり方は一定範囲の農地を徴収し、「都市計画」の名目で「建築用地」(住宅用地あるいは商業用地)に変更し、一部分(40%位)を弁償として農家に与え、残った部分を財団に売却する。その審査は「都市計画委員会」によって行われている。「都市計画委員会」のメンバーの半分は役所の役員、半分は政府に指定された専門家達。農民(農地の持ち主)は反対する権利を持たない。実は、「建築用地」の値段は農地よりずいぶん高いから、一見すると両者とも儲けるため、反対する農家は少ない。

こうして台湾の農地は大量消失している。現在台湾の食料の自給率は30%くらいであり、しかも減少傾向にある。

最後には、「各機関経管国有公用被占用不動産処理原則」である。

台湾における建築法に反する建物や土地の所有権を伴わない建物は、すべて「違章建築」と呼ばれている。

1949年国民党が台湾を占領し、たくさんの知識人を殺し、台湾において「中華民国」政府を成立させた。残った台湾本来の住民はほとんど文字を読めない。その時すでに台湾に住んでいた人々もいれば、国民党と一緒に中国から台湾に遷移した兵士やその家族もいた。土地の所有権は混乱状態にあった。1950年代と60年代の二回の「全国土地総登記」では、住民が文字を読めないため、たくさんの土地が国有地になった。国有地に住んでいた住民の家は「旧違章建築」と呼ばれている。

1970年代から工業社会に入って大量の労働者が必要となった。数多くの農民たちが中南部から台北に来て工場で働いた。これらの「城郷移民」が現れたため、「旧違章建築」の売買が始まった。彼らは税金、水道代、電気代も払っていたし、戸籍もきちんと作られ、一見合法的であった。が、彼らも教育レベルが低かったため、自分が売買する家は土地の所有権を含んでいないという事実さえ知らなかった。多くの人の家は「違章建築」であったまま、何十年もそこでの暮らしが続けられてきた。

十数年前まで、政府が国有地を回収する際は、必ず公共事業の企画を提出し、「公共工程拆遷(取り壊し)補償条例」に従って「旧違章建築」の住民に補償金を払っていた。しかし2000年から「各機関経管国有公用被占用不動産処理原則」を制定してから、政府のやり方が豹変した。政府はもう公共事業の企画を提出せず、補償金も勿論払わずに、直ちに住民を民事裁判で告発する。「家を取り壊し、土地を返す」ことと「不正利得を賠償する」ことを要求し、住民の銀行口座を封じ、給料を留置する。賠償金は一世帯80万元から800万元まで。「華光社区」(後述)も「紹興社区」も、その一例である。

士林王家争議

清朝から、日本や国民党の植民地支配を経て、王家の家族はずっと士林という下町で、今と同じ家に住んできた。もう百年以上になる。2006年、楽揚建設会社が住民の名義で都市更新の計画を提出し、三分の二の同意を得た。その計画は消防法に違反するにも関わらず、台北市庁の許可を得た。

王家は最初から最後まで、「参加しない」という意思を表明している。しかし多数決のルールによって強制され、抗争が始まった。十数回の裁判に全部負けた。2012年3月、台北市庁は「強制取り壊し」の命令を下した。3月27日の夜、四百人の応援者が集まって王家の家に徹夜して座り込み、翌日の朝八百名の警察官と激しく衝突した。最後に全員が追い払われたが、その映像はテレビやインターネットで流されて社会中で衝撃を与えた。

2012年4月以来、支援する民衆は王家の土地で仮設住宅を建てて抗争を続けている。

苗栗県大埔徴収争議

争議の由来

苗栗県は米の重要な産地である。2001年「国家科学会」が「竹南科学園区」の建設計画を提出し、2006年、136ヘクタールの農地の区段徴収を開始した。98%の地主は同意した。2009年、徴収反対の民衆(約二十世帯)は「新竹科学園区竹南基地周辺徴収自救会」を発足させた。2010年、強制徴収開始。区段徴収範囲内全ての土地の所有権が、苗栗県庁に移転され、警察が道路を封鎖し、バックホーなどの重機を使って田んぼを壊した。警察と民衆は衝突した。自救会メンバーの朱馮敏さん(女性、73歳)が農薬を飲んで抗議自殺した。当時の行政院長呉敦義(ウ ドゥン イ)がそれを受けて徴収中止を承認した。これは第一段階の争議である。

第二段階の争議は2013年、県庁は承認を破棄し、7月18日、苗栗大埔四軒の家は「交通用地に当たっている」という理由で強制的に取り壊された。そのために全国の抗議運動が始まった。9月18日徴収された薬屋の張森文さんが自殺した。

主な抗議活動

2010年7月17日、大埔自救会と多数の民間団体が大統領府の前で徹夜して座り込んだ。

2013年8月18日「台湾農村陣線」が多数の民権団体と合流して「818拆政府」(政府を取り壊す)というデモを大統領府の前で行った。二万人の民衆が集まった。その夜、約二千人が徹夜して内政部を占領した。

靴投げ運動

2013年9月18日、苗栗県長劉政鴻が張森文さんのお葬式に現れ、頭に靴を投げられた。それから全国的な靴投げ運動が始まった。劉政鴻に限らず、馬英九も至るところで靴を投げられている。

http://www.youtube.com/results?search_query=%E5%8A%89%E6%94%BF%E9%B4%BB&sm=3/

2014年1月3日、台中高等行政法院は「苗栗県政府の強制取り壊しは違法であった」という判決を下した。これは抗争以来はじめての勝利であった。

華光社区

華光社区は台北市中正記念堂の東南にあり、その面積は約2000坪である。清朝時代は官衙であり、1910年代は日本植民政府の台北刑務所であった。長い歴史があるため、たくさんの古い建物やその遺跡がある。しかも自然にできた社区だから、豊な文化遺産をもち、老舗の多い地域である。現在は法律的に国有地であり、管理機関は法務部である。

社区の住民は三種類に分けられる。第一、清朝や日本占領時代、すなわち国民党が台湾に遷移する前からずっと住んでいた住民である。第二、国民党と一緒に台湾に遷移した中国からの公務員とその家族。第三、1950年代や60年代に南の農村から移住した労働者。いずれも「違章建築」だが、彼らの居住事実は彼らを「違章」にした法律より先立つ。それが争議点の一つ。

もう一つの争議点は、長い間政府が光電費や水代、住居税さえ徴収しているということである。つまりその住民たちの居住事実は黙認されていた。

2007年、行政院は再開発計画を提出し、華光社区を「台北ウォール街」に改造しようと公表した。それから「各機関経管国有公用被占用不動産処理原則」によって民事裁判で住民たちを起訴した。しかし、2012年、計画は「台北六本木」に変えられた。2013年「台北六本木」は他の場所に移ることになったが、華光社区の未来は不明である。計画が明確にされていない。

が、裁判は続けられていた。住民たちは全部敗訴。2013年強制的な取り壊しが開始。そして2013年3月27日、激しい抗争があった。

激しい抗争があったにも関わらず、結果は全滅と言うしかない。現在華光社区はもう存在しない。

反対運動に対する反省

これまで三つの例を見てきたが、幾つかの事実が明らかになる。その第一、すべての抗争はデモクラシーの枠組の中で行われていた。そのために、すべての行動はマスコミでの「記号の戯れ」になり、実質の問題に触れることができなかった。

抗争はデモ、訴願、裁判、講演、文章、民衆美術、音楽、パフォーマンスなど、様々の形で行われている。一見豊かだが、実はやったことは一つしかない。それは世論に訴えることである。少数から多数に世論を逆転しようという企てである。それは多数決の原則を認めることを意味する。仮に反対運動が順調にいっても、所詮福祉国家になるしかない。この情けない事実は活動家たちにも分かっているが、簡単に超えられるものではない。

第二、今まで土地問題に関わるほとんどの活動家たちは、中国の問題を避けている。それは理解できないことではない。今台湾の政権は中国の支援で成立しているし、資本家もみな中国に大量投資している。その故、中国の問題は台湾全社会で禁忌となった。

しかし、「中国」があるからこそ、台湾における土地の問題は解決できない。土地投機が格差を生ずる。土地の所有がどのように集中しても、地価がいくら高騰しても、買い手がなくなったら意味がない。「外部」が必要である。2010年のECFAによって中国資本が、台湾の土地や不動産を買うことは可能になった。更に、2014年からは中国資本が台湾の土地や不動産の買収をする際の規制緩和が始まる。中国資本が殺到するのは簡単に予想できる。反対活動がいつも政府に無視されているのは、そのためである。ひとつの国家として真の自立ができなければ、台湾には未来も希望もない。