大澤真幸氏 友愛のコミューンと偽ソフィーの選択

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終息の見えない原発事故、なぜ原発反対派が明確な多数派にならないのか? 原発に依存しない社会を目指すための、論理的社会学的問いと解答の試み。『at plus』08号(太田出版)に掲載された大澤真幸氏の「可能なる革命」の連載第2回の全文を掲載します。

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2011年3月11日午後2時46分に、日本の太平洋沖で大地震が勃発し、そのすぐ後に、東日本の太平洋岸は、大きな津波に襲われた(東日本大震災)。この地震と津波が原因となって、東京電力の福島第一原子力発電所が破壊され、放射性物質を周囲にまき散らし始め、未だに、この事故の解決への見通しが立っていない。この偶発的な災害と事故、これらは、本連載の主題、つまり「革命」という主題と深く関連している。ゆえに予定を変更して、地震と原発事故がわれわれに提起している問題について論じておきたい。

1 友愛のコミューン

革命と災害は、しばしば、不可分である。レベッカ・ソルニットが『災害ユートピア』で、1906年のサンフランシスコ大地震や未だに記憶に新しい2005年のニューオーリンズの大洪水等を精査しながら述べているように、大災害の直後の状況と革命はよく似ている。実際に、災害がそのまま革命へと転化していった例は、歴史上、いくつもある。
ソルニットは、革命へと連続していった災害の代表的な例として、1985年のメキシコシティ大地震を挙げている。1985年9月19日の朝、メキシコシティは大地震に見舞われた。ソルニットが、精密な聞き取り調査から結論しているところよれば、地震当時までにすでに56年間も政権の座にあった制度的革命党PRIの力を削ぎ、その後20年以上も続く長い民主化のプロセスを開始させたのは、この大地震だった。民主化の運動の担い手たちの多くが、実際に、そのような自覚をもっているのだ。震災と革命の連続をもっと端的に示している例として、やはりソルニットが挙げているのは、1972年のニカラグア地震とニカラグア革命である。1979年に、ニカラグアでサンディニスタ民族解放戦線が革命に成功しえたのは、この地震があったためである。
歴史を振り返れば、こうした例は、いくらでも増やすことができるだろう。たとえば、1789年7月14日にフランス大革命が始まったことは誰でも知っている。だが、革命への機運が急速に盛り上がったのは、その前年の夏に、穀物が不作で、食料が不足したり、飢饉があったりしたからだという事実は、それほど知られていない。1871年3月から5月のパリ・コミューンは、しばしば革命のモデルとされている。このパリ・コミューンにも、ある種の災害が、つまり普仏戦争におけるフランスの敗北が与っていたことは論を俟たない。
今日のわれわれにとって興味深い例は、1991年のソビエト連邦の崩壊であろう。この「脱社会主義革命」を導いた原因の一つ──最も重要な原因とも見なしうる出来事──が、その5年前の災害、チェルノブイリ原発事故であった。2006年に、ソ連元大統領ミハイル・ゴルバチョフが自ら、こう語っている。「わたしが始めたペレストロイカ以上に、20年前のこの月に起きたチェルノブイリ原発事故こそが、おそらく5年後のソ連崩壊の真の原因でした。実際、チェルノブイリの大惨事は歴史上のターニング・ポイントでした。あの事故の前に、ある時代が終わった。事故の後にはまったく違った時代があったのです」。
これらの例において、すべて革命は災害と深く結びついている。どこまでが災害で、どこからが革命だという厳密な境界線を引くことができない──あるいは無意味な──ほどである。どうして、災害と革命は、かくも連続するのか?
災害においては、「ユートピア」が、つまり「法外な共同体」が生まれるからである。大災害に関して、次のような紋切り型のイメージがある。すなわち、災害時には、法律や警察が機能しなくなり、人はまずは自分が生き延びることを優先させるので、犯罪や強姦が横行するようなホッブズ的な自然状態が、つまり万人が万人に対して狼になるような生存のための激しい闘争が出現する、と。2005年8月29日に、ハリケーン・カトリーナに襲われた後のニューオーリンズは、実際に、このような無法地帯になった、と報道された。しかし、ソルニットによれば、こうしたイメージは、実態とはまったくかけ離れている──というより実態の正反対でさえある。
地震、爆撃、台風などの直後の緊迫した状況においては、ほとんどの人が驚異的なまでに利他的になり、自分の家族や身内に対してはもちろんのこと、隣人や、まったく見ず知らずの他人に対してさえも思いやりを示し、助け合おうとする。大惨事の後は、人間は、利己的な本能を剥き出しにし、野蛮な殺し合いにまで至る、という通念とはまったく逆のことが起きるのだ。ソルニットは、このことを、いくつもの災害に関する綿密な調査・聞き取りを通じて証明してみせた。彼女は、災害時に出現する、このような地域共同体を、つまり人々が互いに協力し、助け合い、強い連帯と利他性によって特徴づけられるこの共同体を、「災害ユートピア」と呼んでいる。
カトリーナ襲来後のニューオーリンズの「無法地帯」についての報道も、実は、根拠のない風評を追認したものに過ぎず、実際にニューオーリンズに現れたのは、まさに「災害ユートピア」であった。災害ユートピアと対立的な「ホッブズ的自然状態」が(部分的に)現れるとすれば、それは、ほとんど、予言の自己成就のような仕方を通じて、である。すなわち、状況がホッブズ的であるという前提のもとに──そうした状況を克服することを目的として──投入された軍隊や警察が、疑心暗鬼になって、被害者たちに発砲したり、暴力を奮うこと、そうしたことがまさにホッブズ的な自然状態を招いていたのだ。つまり、権力の真空地帯に典型的とされている状態は、まさに、権力的な介入によってこそもたらされていたのである。
それでは、3・11の東日本大震災については、どうであろうか。そこにも、まさに災害ユートピアの最高の実例とも言えるコミューンが出現した。まず、被災者たち自身が、互いに助け合い、協力し合うネットワークを自発的に立ち上げた。このネットワークに、自衛隊や消防、医師、あるいは役場・役所の職員などのプロの救助者が加わる。そして、さらに、国内外から、被災者の救済のために、実にたくさんの、数えきれないほどのボランティアが集まったし、現在も集まりつつある。その中には、普段からこうした救助活動に関わってきたNPOもあれば、被災者の苦境を座視していられなくなって、初めて立ち上がった若者もいた。ボランティアとして救援にかけつけたのは、個人だけではなく、営利を放棄した企業も含まれる。ボランティアとして現場に行くことはできなくても、物資や義捐金・支援金を現地に送ることで、間接的に救援のネットワークに参加した人の数は、さらに多い。また、今回の地震・津波に関しては、インターネットを通じた繋がり、ツイッターやフェイスブックの繋がりが大きな役割を果たしたことに特徴がある。
現地の被災者の「命」を準拠とした、こうした相互救済のネットワーク、これを私は、「友愛のコミューン」と呼びたい。ソルニットも指摘しているように、緊急事態を意味する英語“emergency”は、「emerge(出現する)」の派生語である。緊急事態に出現するもの、それは何より、友愛のコミューンではないか。このように見ると、しばしば災害が革命へと転化したのはどうしてなのかが、明らかになる。破局的な大災害において出現する友愛のコミューンが、短期間だけではなく、そのまま持続したら、それこそ革命、可能なる革命ではないか。災害の破局は、革命の好機でもあるのだ。

2 戦争と革命の等価性

それならば、友愛のコミューンを大惨事の衝撃が続いている短期間を超えて、生き残らせるには、どうしたらよいのか? ここで、ウィリアム・ジェイムズが述べていること──より正確にはジェイムズの議論に対するソルニットの巧みな解釈──が、参考になる。ジェイムズとは、あのジェイムズ、プラグマティストのジェイムズである。ジェイムズは、晩年に、1906年のサンフランシスコ地震を体験しているのだ。
(ジェイムズの)プラグマティズムの特徴は、その真理観にある。普通は、ある主張の真/偽は、それが事実に対応しているかどうかで決まると考えられている。それに対して、プラグマティストは、ある主張の真理性、正しさは、その主張がどのような実践的な帰結を生むかで決まると考える。たとえば、一般には、「神が存在する」という命題が真であることを証明するためには、神が事実としてどこかに存在しているという証拠(誰かが神の声を聞いたとか、神が存在していると仮定しないと説明できない経験的事象があるとか……)を提示する。しかし、プラグマティストはそうは考えない。「神が存在する」と仮定して行動するときと、「存在しない」と仮定して行動するときでは、どのような違いが出るのかを問題にするのだ。もし神が存在していると見なそうが、存在していないと見なそうが、その人の行動に何の違いも出ないのであれば、プラグマティズムの観点からは、「神が存在する」という命題は、真/偽に関係のない命題である。
さて、ウィリアム・ジェイムズは、1906年2月末に、「戦争に代わる道徳的等価物」という論文を発表している。ジェイムズは、当時のアメリカの帝国主義的な戦争に反対であった。彼は、アメリカの対スペイン戦争やフィリピン併合を間違ったものと考えていたのだ。戦争を撲滅することはできないか、これが論文を導く問いである。
だが、同時に、ジェイムズは、一部の人にとって、戦争がユートピアであることも分かっていた。ある種の人は、戦争で役割を与えられることで尊厳やプライドを得ることができるからである。そういう人がいる以上は、戦争を簡単になくすことはできない。戦争を撲滅するには、プラグマティズムの観点から、戦争と同じ機能を果たすもの、戦争の等価物を見つけなくてはならない。これが、ジェイムズの論の展開である。
等価物として、ジェイムズはどんなことを見つけたのか。率直に言って、それは、あまりはかばかしいものではない。ジェイムズが、戦争の等価物になるのではないかと提案していることは、簡単に言えば、徴兵制に類する徴集制をともなった、さまざまなコミュニティワークである。炭坑とか、道路工事とか、クリーニングなどで、若者たちを働かせたらどうか、というわけである。こうした日常的で地味な仕事が、戦争で英雄となることの代理物になるとは思えない。もしこういうものでよいのならば、そもそも、「戦争」などに憧れたりはしないだろう。
この論文を公表してから約6週間後の4月18日に、地震が起きた。サンフランシスコから50キロほど離れた地点に住んでいたジェイムズも被災者の一人である。地震の約2カ月後に、彼は「地震の心理的効果について」というエッセイを書いている。地震に対するジェイムズの反応は「歓喜と感嘆のみだった……恐怖はまったく感じなかった。純粋な喜びと歓迎だった」。地震の中で、彼は何に感動したのか。一つは、混沌の中から素早く社会秩序が生まれたことであり、一つは、人々が沈着冷静だったことである。彼は、画家ウィリアム・キースの熱烈なファンの二人が、焼失しつつあったキースの家に行って、炎の中から絵画を救出した例などを挙げている。要するに、ジェイムズは、地震の中から、速やかに出現してきた「友愛のコミューン」に感激したのだ。エッセイの中で、彼は、こう書いている。「通常の不運の最も耐え難い部分は、孤立という特徴から来ている」と。つまり、震災の中で、「孤立」はなかった、と言っているのである。
エッセイを書いてから、さらに半年後にあたる12月に、ジェイムズは、アメリカ哲学協会を相手に、基調講演を行っている。その講演「人間のエネルギー」の中で、彼は、もう一度、地震に言及した。人間の潜在的なエネルギーを引き出す事象の例として。こうしたジェイムズの興奮ぶりから、ソルニットは、次のように推測している。ジェイムズは、戦争の道徳的等価物をついに見つけたのだ、と。それこそ災害である。
われわれとしては、この等価関係を逆方向に辿ることで、教訓を得ることにしよう。つまり、災害の等価物は戦争なのだ、と。災害は友愛のコミューンを出現させるという点から見ると、革命に似ている。その革命としての災害が維持されるのは、災害が、戦争の等価物であるとき、つまり戦争の類比と見なしうるときである。ここで、日本のここ20年ほどの出来事を知っている者としては、連想を、1995年の出来事へと拡張してもよいかもしれない。オウム真理教は、地下鉄にサリンをばらまくことで、彼らなりの「革命」を遂行しようとしていた。その「革命」は、まさに戦争(ハルマゲドン)という資格を与えられていた。

3 偽ソフィーの選択

以上のような考察を携えて、目を原発事故に転じてみよう。震災は、何万人もの人の命を奪い、さらに多くの人の貴重な財産を奪う、悲惨な出来事である。しかし、その副産物として、革命の可能性を、われわれに垣間見せる。友愛のコミューンを自然発生的に生みだすことによって。しかし、原発事故とそれに対する人々の反応が示唆していること、それはこれとはまったく逆のことである。つまり、3・11以降の福島第一原発の事故への反応は、むしろ、革命の困難、あるいは革命の不可能性をこそ表現しているように見えるのだ。どのような意味なのか、説明が必要だろう。
地震が起き、それが原因となって原発事故が起きたため、日本政府と福島原発の所有者である東京電力への批判は、非常に高まっている。原発への安全対策に関して東電よりも優れていたとは必ずしも言えない、他の電力会社に対しても、批判的な目を向けている者が増えていることだろう。日本政府の原発に関するこれまでの諸政策、政府の事故と震災への対応、そして何よりも東電の原発の管理と事故後の対応、こうしたことは、今、厳しく批判されている。こうした批判の延長上に、社会構造の大きな変革が、「革命」と呼ぶに値するような変革が、生ずるのではないか、と予想してはならないのだろうか。それほど遠くはない将来に、革命的とも呼べるような変化が起きる蓋然性が高まっている、と予想してはならないのだろうか。
エネルギー、つまり電気は、今日、われわれのほとんどすべての活動の前提である。現代社会においては、電気とまったく関係のない活動はほとんど皆無である。したがって、電力をどのような方法で供給するのかということは、社会構造をほぼ全体として規定している。われわれが、どのような方法を選択するのかということ、その選択の方法の大幅な変更は、社会の構想が机上の空論にならないためには、絶対的な必要条件である。
それならば、福島第一原発で深刻な事故が起きたということを前提にしたときに、われわれが採るべき選択肢、われわれが目指すべき社会状態、電力供給に関して最終的な目的とすべき状態は何か? この問いに対する答えは、自明であると私は思っている。原子力発電所の全廃である。最終的に日本国内の──やがては世界中の──すべての原子力発電所を廃炉にすることを目指すしかない。新しい原発の建設など、もってのほかである。無論、現在稼働している原発を即時にすべて停止することは、多くのプラクティカルな困難のゆえに現実性がないだろう。まして、廃炉のためには、技術的にも相当な時間が、何十年もの時間が必要になる。しかし、ある程度の長期的な展望に立ったとき、原子力発電所をすべて廃止して、もし必要ならば、異なる電力供給源を開発しなければならない。この結論に関しては、自明の説得力があるように私には思えるのだ。このことを理解するのに、難しい哲学や倫理学、あるいは最新の正義論等を知っている必要はない。
したがって、私がここで考察したいことは、原子力発電所を今後どうすべきか、ということではない。原発の建設を推進すべきかどうか、すでに存在している原発を維持すべきかどうか、ということについて、あらためてここで論じたいとは思わない。今述べたように、その点についての最終的な結論は、自明だからだ。
私の疑問は別のところにある。どうして、この自明な結論に、人は必ずしも説得させられないのだろうか? どうして、すべての人、あるいは圧倒的に多数の人が、この結論に一挙に到達しないのだろうか? 無論、福島原発の大きな事故を目の当たりにして、日本人の間で、あるいは世界各地の人々の間で、反原発・脱原発の支持者は急速に増加したに違いない。この点については疑問の余地はない。しかし、反原発・脱原発が圧倒的な支持を得るには至っていない。いずれ原発がすべて廃止されるだろうという予想をもてるほどの支持は、まだとうてい得られていない。
たとえば、4月1日から3日にかけて讀賣新聞が実施した全国世論調査によると、原発に対して消極・否定的な者の比率(「原発を減らすべき」「すべてなくすべき」)は、全体の41%で、広義の積極・肯定派(「現状維持」「増やすべき」)の56%を下回っている。全廃を主張した者は、12%にしかならない。最も多いのは、現状維持の46%である。讀賣新聞は、もともと原発を日本に導入した正力松太郎の会社だからと勘ぐる者には、4月16─17日に行われた朝日新聞の同様の調査を提示してもよい。こちらでも、広義の積極・肯定派の比率は56%になる。朝日新聞の2007年の調査と比較すると、さすがに強い積極的な推進(原発を増やす)の比率は、激減しているが(13%→5%)、現状維持という消極的な肯定派に関しては、ほとんど変わっていない(53%→51%)。つまり、日本では、原発に関しては現状維持を含む肯定派が、依然として過半数を占めているのである。
われわれは、今、原発のもつ非常なリスクをよく知っている。また、一般に、リスクの確率をゼロにすることができないことも自明である。にもかかわらず、原発を支持する者の方が、未だに多数を占めているのは、どうしてなのだろうか? 沖縄の基地でさえも、県外移設の支持者が、(沖縄県内で)過半数を占めている。米軍基地よりも、原発の方がましだとは思えない。にもかかわらず、原発への反対派は、多数派にはなれてはいない。それはどうしてなのだろうか? それには、何らかの──十分には見えていない──論理的な理由と、その論理的な理由を説得力あるものにしている社会学的な原因があるはずだ。それらは、いったい何なのか? 私が解明したい謎は、原発を今後どうすべきかどうかという問題ではなく、原発の将来についての、哲学的には1見自明な結論へと人が辿りつくのを阻んでいる要因は何かという問題である。
政治哲学の泰斗ジョン・ロールズは、かつて、社会制度が満たすべき絶対的な徳は「正義」であると論じたことがある。どんなに都合のよい制度や社会構造であったとしても、正義に反するものは排さなくてはならない。たとえば、奴隷制度は、何らかの目的にとって──たとえばプランテーションでの農業生産性にとって──好都合であったとしても、正義に反するとすれば、採用できない。同様に、原子力発電所は、正義に反するのではないか。われわれは、今、それを知ったのではないか。そうだとすると、正義にかなった社会、よき社会を目指す革命は、当然のことながら、原発に依存しない社会を目指さなければならない。ところが、原発を脱した社会への支持は、さして大きくはない。この事実は、明確に「革命」にとっての障害となるだろう。

疑問の輪郭をクリアにするために、ウィリアム・スタイロン原作の映画『ソフィーの選択』(アラン・J・パクラ監督)を参照してみよう。この作品で、主人公ソフィーは、ドイツのユダヤ人強制収容所で、ナチの将校から究極の不可能な選択を迫られる。ソフィーには二人の子どもがいる。ナチ将校は、彼女に、二人の子どものうちのどちらかを選べ、と迫る。選ばれなかった方の子どもは、ガス室に送られ、殺される。もし彼女がどちらも選ばなかったときには、子どもは二人ともガス室に送られる。ソフィーはどうしたらよいのか。追い詰められた彼女は、ついに、下の息子の方を選んだ。しかし、そのために彼女は、深い深い罪悪感から逃れられなくなり、ついには発狂してしまう。
われわれは、ソフィーの選択の場面を見て、胸が裂けるような思いをもつ。そして、彼女は、そうするほかなかったのだろう、上の子を犠牲にするしかなかったのだろう、と考え、そして彼女の苦悩や悲しみを思って、深く同情する。「ソフィーの選択」は、真に困難な問題であると考えられており、倫理学や哲学の論文でも頻繁に引用されてきた。
だが、ソフィーの手のうちにあるものが、二人の子どもではなく、一人の子どもとエアコンだったとしたらどうであろうか。強盗が来て、子どもかエアコンのどちらかをよこせ、と彼女に迫っているとしたらどうだろうか。突然、問題は倫理学の論文で扱うまでもない易しいものに変わる。しかし、もしここで、彼女が、子どもにしようかエアコンにしようか、迷ったらどうだろうか。子どもも大事なことは大事だが、暑い夏を乗り越えるのにエアコンがないのは辛い、と彼女が迷いに迷ったら、われわれはどう思うだろうか。彼女の倫理観や愛情にあきれるだろう。まして、彼女が、エアコンの方を採ったら、憤激するに違いない。
原発を廃止すべきかどうかと迷っているとき、われわれは、この改訂版のソフィーと同じ状況に置かれているのである。子どもの命とエアコンのある快適な夏のどちらを選ぶべきなのか。こういう選択は、夕食にステーキと鮨のどちらを食べようかという選択とは、まったく種類を異にしている。命とエアコンの間には、選択の対象として比較すること自体が冒瀆的であるような圧倒的な乖離がある。われわれは迷うことなく、子どもの命(原発廃止)の方を採るべきではないか。
だが、実際にはそうはならないのだ。どうしてだろうか? 間違わないで欲しいが、私はこの論文で、原発を維持したり、増やしたりすることは、子どもの命よりもエアコンを重視するに等しいのだから、ただちに原発を廃止すべきだ、と主張したいわけではない。そうではなく、どうして、人は、必ずしもこの自明な結論に到達しないのかを知りたいのである。外から見れば、われわれは、改訂版ソフィーと同じ立場にある。しかし、改訂版ソフィーの迷いや誤った選択に憤りを覚えるような倫理感の持ち主が、必ずしも、反原発や脱原発の支持者にはならない。どうしてだろうか。われわれは、改訂版ソフィーのはずなのに、まるで本来版のソフィーのように迷いに迷い、苦しんでいる。つまり、改訂された偽ソフィーを真正ソフィーへと転換してみせる何らかの要因が働いているのである。それを知りたいのだ。

誤解を避けるために、いくつかの論点を補足しておこう。飛行機や自動車だって、ときに人の命を奪うような危険性があるのに、それらの圧倒的な利便性のゆえに、われわれはそれらを選んでいるではないか。原発だって、これと同じことだ、と主張する人がいる。しかし、この主張は間違っている。こう主張する人もほんとうは分かっている理由によって、間違っているのである。
飛行機や自動車と原発を比べることには、エアコンと子どもの命の比較と同じような冒瀆性がある。どこに問題があるのか。二つのことが重要である。第一。確かに飛行機や自動車の事故も多くの人の命を奪う。原発がこれと違うのは、その事故が、ときに一つの共同体、一つの国民、さらに最悪の場合には類としての人間の全体を危険に陥れる、ということである。だから、われわれは、3月11日以降ずっと、福島原発の様子を戦々恐々としながら眺めているのである。目下のところ、原発事故で一人の死者も出ていないのは、われわれが運がよいからである。運が悪ければ、はるかに多くの犠牲者が出たかもしれない。第二。飛行機や自動車は、正常の状況下では、基本的には「安全」である。少なくとも、何らかの異常事態の下での危険度と、正常時の危険度とでは圧倒的な落差がある。高速道路を走っている車のブレーキが効かなくなれば、たいへん危険ではあるが、そうした故障がないときの車の運転は、安全である。しかし、原発の問題は、通常の稼働時でも、誰かが、きわめて危険な作業──ほんのわずかな間違いで大量の放射線被爆の可能性がある危険な作業──に従事しなくてはならない、ということにある。詳述は避けるが、正常の稼働時と事故のときの危険度の差異が、原発の場合には小さい。こうしたことを考えると、原発を、自動車や飛行機と同様に扱うことはできない。
次に、原発反対派に対するコメントを記しておきたい。原発への反対意見は、しばしば、代替的なエネルギー源についての意見をともなっている。原発がなくても、水力や火力の発電所だけでやっていけるとか、あるいは風力、太陽光発電等の新ネネルギー源で減少した電力を補うことができるといった提案である。こうした提案は、それ自体としては、きわめて重要なものではある。実際、もし原発をやめることになれば、当然、どのようにして電力需要を満たすのかという具体的な方法を検討しなければならない。エネルギー源についての提案は、それゆえ、それ自体としては、きわめて価値のあるものである。
しかし、これを原発を廃止する根拠の一つとすることは、哲学的には間違っている、と言っておこう。すなわち、水力や火力だけでやっていけるからとか、新エルネギー源があるから、ということは原発を廃止する根拠にすべきではない、と私は考える。それらは、原発の廃止や縮小が決まった後に、考慮すべきことである。確かに、原発推進派が、原発がなければ、電力需要を満たすことができないということを重要な根拠として挙げるので、これを論破するために、代替的なエネルギー源があるということを指摘したくなるのは分からないでもない。
だが、先の偽ソフィーの例に立ち返れば、こうした対抗自体が間違っていることが分かる。たとえば、あの改訂版の偽ソフィーが、「性能のよい扇風機があるから(エアコンがなくなっても困らない)」という理由で、強盗にエアコンを渡したとしたら、どうであろうか。そうしたことを理由にするということは、扇風機がないときには、子どもの方を捨てるということを含意している。しかし、子どもの命を犠牲にしてはならない理由は、エアコンの代わりの扇風機があるかないかに関わらない。扇風機がなくても、子どもを犠牲にしてはならないのだ。「扇風機があるから大丈夫」という反論は、むしろ、子どもの命とエアコンの間の選択──比較自体が禁じられるようなおぞましい選択──を、扇風機かエアコンかという選択に置き変えてしまうので、結果的には、原発推進派の論理にむしろ譲歩してしまっている。ほんとうの問題は、原発と風力のどちらがよいかが問題なのではなく、原発と命のどちらを採るべきかである。
ここでわれわれが直面している問題は、啓蒙の限界に関する困難である。つまり、原発の廃止であろうが、逆に原発の推進であろうが、どちらも「啓蒙」の戦略によって支持者を増やすことはできないだろう。たとえば、TPPに参加すべきかどうかとか、消費税を8%にすべきかどうかという政策については、支持をとりつけるにあたって、啓蒙が有効な戦略である。TPPについての意思決定や消費税の値上げについての決定には、経済学や財政学、あるいは国際関係論等についての知識が必要になる。TPPとは何であり、それに参加することにどのようなメリットやデメリットがあるかを説明することで、支持者や反対者を増やすことができるだろう。
しかし、原発に関しては違う。なるほど、福島原発の事故が発生する前は、一般の日本人は、原発についても、放射線についてもたいした知識をもっていなかったかもしれない。しかし、事故後は、多くの日本人は、意志決定にとって必要なだけの十分な知識を与えられている。たとえば、原発の増設や維持を支持している人は、原発の危険性を知らないわけではない。何しろ、その人たちもまた、原発事故の現場を目の当たりにしているのだから。原発に反対の人は、原発の利得について無知なわけではない。彼らもまた、計画停電や節電による不便や不都合に巻き込まれているのだから。おそらく、原発への支持/反対という意見の分布は、知識の多寡にはあまり依存していない。とすれば、何がそれを規定しているのだろうか。

4 リスク社会のリスク

今回はまだ、問いに答えることはできない。しかし、問いの意味を深めておこう。3・11の震災・津波もまた原発事故も、社会学で言うところのリスク社会論のスコープに入る主題である。それらは、リスク社会におけるリスクと見なしうるからである。
個人レベルから社会レベルに至るさまざまなリスクにとりつかれた社会をリスク社会と呼ぶ。リスク社会は、時代的には、近代の後期、ボストモダンと呼ばれる段階と重なっている。リスクは、ポストモダンに固有なものではないのではないか、どんな社会にも危険はつきものではないか、といぶかる者もいるだろう。しかし、リスクと危険一般とは異なっている。リスクの本質は「選択」である。われわれが何ごとかを選択したとして、その選択にともなって生じている(と認知された)不確実な損害がリスクである。だから、当然、原発事故はリスクである。原発という発電法を選択したのは、われわれだからである。だが、地震や津波はどうであろうか。それは、選択に関係のない天災ではないか。しかし、それらの被害を規定するのは、やはりわれわれの選択や決定である。すなわち、どの程度の地震や津波を予期し、防災対策を講じるか、ということがその被害の大きさを規定する。われわれは、ただ受動的にそれらを待ち受けているだけではない。このとき、地震や津波もまたリスクとしての性格を帯びる。
リスク社会論の教えを援用すると、われわれは、どこに問題の複雑さがあったのかが、少しずつ見えてくる。たとえば、3・11の破局をめぐる言説の中心を占めているのは、「想定外」という語である。これほどの大きな地震や津波は想定外であった、これほど破壊的な原発事故も想定外だった、と。これらが、「想定外」だったことは、偶然ではない。つまり、われわれは、たまたま運が悪かったわけではない。リスク社会のリスクが「想定外」になることには、社会学的な原因があるのだ。
普通、「想定外」に対抗するものは正確な知であると考えられている。精度が高く、合理的で科学的な予想によってこそ、「想定外」を克服することができる、つまりそれを想定の中に含めておくことができる、と考えられている。しかし、「想定外」を生み出しているのは、知(の不足)ではない。「想定外」を規定しているのは、信である。だから、「想定外」と闘うには、知だけでは足りない。それは、信の構造を換えることによってしかほんとうには乗り越えられない。
どういうことか、少し説明しておこう。人には、起こりうることが分かっているのに、しかしほんとうに起こるとは信じておらず、したがって、事実上は「ありえないこと」と見なしていることがある。極端な破局は、たいていそうした類のことである。たとえば、マグニチュード9.0の地震とか、高さ30メートルを超す大津波とか、原発の冷却機能の完全なる停止等は、論理的にはありうるとされても、事実上は不可能なことと見なされることに含まれる。どうして、こんなことになるのか。第一に、信と知とは同じものではなく、両者の間にギャップがあるからである。そして、第二に、信と知の間には相互に規定し合うような関係があるが、最終的な決定要因は信の方にあるからである。知っているが信じていないことに関して、優先権をもつのは、「信じていない」ということの方なのである。信じていないことに関して、それを「想定した行動」をとることはできないのだ。
それでは、なぜ、津波や原発事故の可能性を、人は「信じる」ことができなかったのだろうか? そうした可能性を想定できなかったことに関して、それを、一部の人の打算的で意図的な排除の産物であるかのように論じる人がいるが、それは、事態の真の深さを捉えていない解釈である。東京電力等の電力関係者が利潤を優先させて、事故の可能性を意図的に軽視した、あるいは行政が予算の都合や怠惰のために、十分な高さの防波堤を築かなかったといった解釈は、まだ十分な説明にはなっていない。電力会社等が資本の論理に基づいて、利益を重視したことは間違いないだろうし、また行政がさまざまな事情から十分な対策を怠ったことも事実だろうが、しかし、そうした計算や行動を規定する、もっと深い原因があるのだ。それこそ、リスク社会のリスクを本質的に特徴づける構造的な要因である。リスク社会のリスクは、通常の合理性、科学的な合理性を無意味なものにしてしまう性質をもっているのである。

どういうことか? リスク社会のリスクには、二つの背反的な特徴がある。第一に、それは、いったん生起すると、物的にも精神的にもきわめて深く広範な損害をもたらす、非常に大きな破局である。それは、極端な場合には、一つの国民とか、あるいは人類とかを、全体として危機に陥れるほどの破局である。今回の津波や原発事故もそれにあたる。第二に、それが生起する確率は、非常に小さく、ときに小さ過ぎて計算不能である。今回の地震とそれによって引き起こされた事故が、1000年に一度のものであったとすると、まさにこの性質をもっていることになる。こうした二つの特徴をもったリスクに対しては、確率論が教えるような合理的な行動が成り立たない。
確率論によれば、われわれは、リスクに対しては、いわゆる「期待値」に応じたコストをかけるのが合理的である。期待値とは、「損害×確率」という積である。たとえば、自動車事故は一定の確率で起きる。このとき、事故のための安全対策にどのくらいの費用をかければよいのだろうか。事故は、いつも起きるわけではないのだから、1台あたり何億もの巨費を投じて装甲車のような車を造るのは、得策ではない。かといって、シートベルトも、エアバックも何もない、まったく安全対策を講じていない車は危険すぎる。予想される事故がもたらす損害額と、その事故の生起確率を掛け合わせて得られる金額が、ちょうど適当な安全対策の費用である。それは、慎重過ぎでもなければ、無防備に過ぎてもいない、中庸を教えてくれる。
リスク社会のリスクにも、これと同じ論理で対抗すればよいではないか、と思うかもしれない。しかし、そうはいかないのだ。先ほど挙げた、リスクの二つの性質は、「期待値」の計算において、互いに相殺し合うような効果をもつ。損害額は、きわめて大きい。何兆円にも上り、国家予算並である。しかし、その損害が出る確率は、たとえば1000年に一度程度だとしよう。1000年に一度ということは、キリストが生まれてから今日までに、せいぜい二度くらいしか起きない、ということである。両者の積をとると、自動車事故の場合と同じように、「そこそこ」の中庸な対策の費用を導き出すことができる。損害額は莫大でも、確率が非常に小さいので、積をとれば、中庸になる。
しかし、リスク社会のリスクに対しては、中庸な選択は、最も価値がない方法なのである。リスクとして予想されている破局は、あまりに激しく、大きいので、中くらいの費用をかけた対策、中途半端な対策など、いざ問題が生じたときには、何の役にも立たないからだ。長い間──アリストテレス以来と言っておこう──「徳」を規定する最も重要な態度は「中庸」であった。だが、リスク社会では、そのような倫理の中心が無効化する。先に、自動車や飛行機の事故と原発事故は本質的に異なっている、と述べたが、それは、この点に関わっている。前者は、まだ中庸という伝統的な徳目が成り立っている世界の事故である。だが、原発事故は、「中庸」を無意味なものにする。
とすれば、リスク社会では、いくら確率が低そうでも、最悪の事態に備えた対策をとるのが合理的だということになるのだろうか。それは、たまに起きる自動車事故に備えて、皆が、何億円もする、装甲車のような車に乗るということである。だが、ここで確率のあまりの低さや計算不能性がネックになる。たとえば、確率が1000年に一度程度であるとすると、次にそのリスクが生ずるときには、われわれは皆、死んでいる、ということである。1000年前のことを思えばただちに理解できるが、1000年後には、「日本」が存在しているかどうかすら怪しい。少なくとも、1000年前には、われわれが理解しているような意味での日本政府も日本国民も存在してはいなかった。1000年後には、間違いなく、自民党も、民主党も、みんなの党も存在していないだろう。
とすれば、1000年に一度のリスクに備えてこれこれの対策をとるべきだ、ということをどうやって合理的に説得することができるのだろうか。われわれは、1000年に一度のリスクに備えていない人を、無用心な人とも、愚かな人とも考えないだろう。隕石にあたって死ぬことを恐れて、重いヘルメットを被り続けている人の方が、むしろ奇人に見える。「1000年に一度くらいはたいへんに困ったことになるから……しておこう」と説明するとき、困ったことになる主体、不幸に陥る主体は、いったい誰なのか。それが「あなた」である確率は、きわめて低く、ほとんどゼロである。では、「われわれ」なのか。しかし、その「われわれ」とは誰か。子孫を含む親族なのか。国民なのか。地域共同体なのか。人類なのか。こうして、リスクの確率があまりに低いとき、そのリスクにさらされる主体を定義することができなくなってしまう。
リスク社会に固有のリスクの一種として、原発事故や津波を捉えることで、われわれは初めて、問題の哲学的な複雑さを明らかにすることができる。私は、先ほど、偽ソフィーの選択という形式で、われわれが直面している状況を描くことで、問題は、哲学的・倫理学的には易しいはずだ、と述べた。しかし、こうした単純化の中では見えにくい困難か、実は隠れていたのだ。
きわめて破壊的ではあっても、生起確率が非常に小さいリスクを問題にするとき、われわれは将来世代のことを、未だ生まれていない未来の世代のことを考えなくてはならなくなる。未来の世代との連帯を考慮にいれなければ、リスクが、誰にとってのリスクかということが定義できなくなってしまうのだ。そうなったとたんに、問題は、哲学的にも困難なものに転化する。(偽)ソフィーは、子どもについての選択に直面していた。しかし、その子どもが、まだ生まれていない子どもだったらどうなるのか。友愛のコミューンのメンバーの中に、未だ出現もしていない未来の他者が含まれているとしたらどうなるのか。われわれの問いは、一歩、深化した。

(初出『at plus』08号、連載「可能なる革命」第2回全文、太田出版)